商社の仕事人(80)その1

2021年02月22日

住友商事グローバルメタルズ
ジェイソン・リン(林盈志)

 

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【略歴】
ジェイソン・リン(林盈志)
1981年、台湾台北市生まれ。オークランド大学人文学部卒。2011年、台湾住友商事入社。2014年から3年間の出向期間を経て、2017年、住友商事グローバルメタルズ入社。

 

東南アジア最後のフロンティア

ミャンマー最大の都市、ヤンゴン―。

ヒマラヤ山脈南端を源泉とし、ミャンマーを南北に縦断するエーヤワディー川の湿潤なデルタ地帯に位置するこの都市は、6世紀に同地を支配していたモン族によって原形が作られ、1755年にこの地を占領したコンバウン朝のアラウンバヤー王によって「ヤンゴン」と名付けられた。「ヤンゴン」とは、「敵」を意味する「ヤン」と「克服する」という意味の「ゴン」の二語からなり、「戦いの終わり」を表している。2006年に首都の座をネピドーに譲りはしたが、いまもヤンゴンを中心とするエリアには700万を超える人々が暮らしており、この地がミャンマー最大の都市であることに変わりはない。

2015年の初夏、そのヤンゴン郊外にある国際空港に一人の男が降り立った。台湾住友商事から住商スチール(現・住友商事グローバルメタルズ=SCGM)に出向中のジェイソン・リンである。ミャンマーの雨期特有の叩きつけるような雨の中、時折、生暖かい風がふっとリンの頬をなでる。

「もう何度目の訪緬となるだろう……」

リンはその風に包まれる度にそう思う。

2011年3月の民政移管によりテイン・セイン政権が誕生したミャンマーでは、欧米諸国の経済制裁が解除され、民主化・経済自由化が一気に進んでいた。そして新たなビジネスチャンスを狙う世界各国各企業からの熱い視線が注がれ、日本からの投資も拡大の一途をたどっていた。リンが訪れた2015年の11月に予定されていた民政復帰後初となる総選挙では、アウン・サン・スー・チー率いる国民民主連盟(NDL)の大勝が予想されており、そうなればミャンマーの民主化には間違いなく拍車がかかる。民主化が進めば、さらに経済は活性化する。インフラ施設の整備や高層ビルの建築ラッシュが続き、それに伴い、鉄鋼の需要もこれまで以上に急速に伸びていくはずだ。

長きにわたった戦いは終わり、5000万人の人口を有する、東南アジア最後のフロンティアが出現したのである。

空港を出たリンは、雨の降りしきる中、タクシーに乗り込む。ダウンタウンまで約15キロ。車で40分ほどの距離だが、発展の端緒についたばかりのミャンマーの交通事情は、決していいとは言えない。

「今日も渋滞しているだろうか……」

ふとつぶやくリン。結局、1時間半かけて市内までたどり着いたが、限りない可能性に満ちた、このミャンマーの地にまだリンの顧客はいない。すべてをゼロから切り開いていかなければならないのだ。リンに与えられたミッションは、ミャンマーにおいてSCGMが新たなビジネスシーズを紡ぎだすためのマーケットリサーチ。ヤンゴン市内ならまだしも、一歩郊外に踏み出ると、そこは熱帯雨林のジャングルが広がる地域。リンが得意とする英語や中国語が通じる保証はない。しかしリンは言う。

「だからこそ面白い!」

リンはそういう人間だ。

 

それはまるでドラマだった

リンは、台湾・台北市生まれ。6歳年上の兄がいる。両親は子どもたちの教育のため、1989年にニュージーランドへの移住を決意した。リン、8歳のときである。移住当時、英語はまったく話せなかったが、そこは適応力の高い子どものこと、「習うより慣れよ」の言葉どおり、友だちと遊んでいるうちに自然と身についたという。

リンはニュージーランドで高校卒業までを過ごし、初めて日本を訪れたのは名門オークランド大学に合格が決まった後だった。

「ニュージーランドの大学では、入試の得点に応じて入学後に専攻を選べるのですが、何を学べばよいかなかなか決まらなくて。迷っていたら親が日本行きを勧めてくれました。叔父が大阪在住で、親族の中に知日派の人が多く、母が日本のドラマが大好き、また、中学1年生のときから第二言語として日本語を勉強していたこともあって、日本に1年間留学することに決めたんです」

こうして、リンは大学への入学を1年間延期して来日。家族と離れての初めての外国暮らしは、心細さよりも新しい環境への興奮のほうが勝っていた。留学先は留学団体に紹介された神奈川県逗子市の県立高校で、外国人はリンただ一人。日本語は学校で学んだ程度だったので心もとない上に、当然注目されるため少なからぬ緊張感もあった。それでも「初めて」の環境は苦にならなかった。

「とりあえず初日からみんなに話しかけて、そこからコミュニケーションをとっていった感じです。ぼくは新しい環境に入るのが結構好きなんですよね」

自分から積極的に輪に入り、環境に無理なく溶け込む。8歳でニュージーランドに移住したときもそうだったのだろうが、その後のリンの活躍を見ると、環境の変化をポジティブにとらえる素養は、すでにこのころから培われていたようだ。

学校で統一した制服があり、毎日ホームルームがあり、弁当を持参してみんなで食べる……。

台湾ともニュージーランドとも全く異なる文化だったが、集団生活に息苦しさを感じることはなく、むしろ、そうしたことの一つひとつが新鮮だった。日本語を習得するための留学だ。集中して日本語の勉強に励んだが、決して勉強漬けだったわけでもない。テニス部に所属し、それなりに高校生活を謳歌した。帰国前には日本語検定二級も取得。充実した中身の濃い留学生活だった。

そんなリンには留学時の忘れられない思い出が二つある。

一つは修学旅行の思い出だ。修学旅行には別途費用がかかる。リンは奨学金をもらって留学したわけではなく、当時は自由になるお金もお小遣い程度しかなかった。親とも相談したが「そんな贅沢は必要ない」と一蹴される。

「修学旅行には行きません」

リンは担任にそう告げる。だが、それを知ったクラスメートたちは声を上げた。

「リンも一緒に行かなきゃダメだ!」

クラスの有志が、文化祭で販売したチョコバナナの売上をリンの修学旅行の費用にあてられるよう、校長に直談判し、リンの修学旅行費は捻出された。クラスメートと行った修学旅行は、もちろんリンにとって一生の思い出となった。

そしてもう一つは帰国の際の出来事である。大学の新学期スタートが2月のため、3学期の途中でニュージーランドに帰ることになったリン。大阪の叔父宅を経由して台湾に帰ろうと、新横浜駅で新幹線を待っていた彼のもとに、突然、ホストファミリーや学校の仲間が大勢かけつけた。しかも、プラットホームに並ぶ彼らの手には「ありがとう、ジェイソン!」と大きく書き記された横断幕―。

「全くのサプライズ! 新幹線の自動ドアが閉まる前から号泣です。日本の良さを凝縮して見られた、中身の濃い、本当にドラマみたいな1年間でした」

台湾語、中国語、英語に加え、日本語もほぼ習得したリンは、ニュージーランドに帰国後、自分の武器は言葉だと改めて感じ、大学では言語学を専攻。そのリンが、再び日本の地を踏むのは、ニュージーランドの大学では最終学年となる3年生のときのこと。2度目の来日で東京大学に留学したリンは、日本の大学で取得した単位でオークランド大学の卒業必要単位数が満了となり、今度は帰国することなく、そのまま日本で就職活動を始めた。

⇒〈その2〉へ続く

 


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