商社の仕事人(85)その1

2021年03月9日

CBC 宍戸慶行

 

安定を良しとせず、

強い開拓精神でゼロから

新しいフィールドに挑戦する

 

【略歴】
宍戸慶行(ししど・よしゆき)
1982年千葉県出身。立命館大学経営学部卒。2007年北京現地採用。2012年本社採用。

 

中米屈指の世界都市、メキシコ合衆国首都・メキシコシティ。机とパソコンがあるだけのガランとしたビルの一室で、CBCの宍戸慶行は途方に暮れつつも、再びやってくるであろう挑戦の日々を想像し、期待に胸を膨らませていた。

「ゼロからビジネスを生み出す面白さがまた味わえる。北京での経験を存分に生かしてやるぞ」

2014年3月、宍戸に課せられたミッションは、当時まだアメリカ現地法人のブランチオフィスがあるのみだったメキシコで、産業用原材料や各種金属類、ナノ材料などを扱うケミカル部門のビジネスを生み出すこと。そして、まだ取り引き先がないゼロの状態から顧客を開拓し、3年後までにメキシコブランチを黒字化させるという途方もないミッションだったが、道なき道を行くということは、自分の頭で考え行動し、自由にビジネスを作ることができるということ。それは宍戸という人間がもっとも力を発揮し輝ける環境だった。実はメキシコに配属される前、すでに中国の首都・北京での現地法人立ち上げと、新たなビジネス網の開拓というミッションをやり遂げていたからだ。

〝開拓こそわが人生〟

自身の生き方をそう表現する宍戸は、商社パーソンとしてのスタートからしてユニークな経歴を持つ。何しろ前職では旅行業務取扱管理者の資格を生かして、大手旅行会社に勤務していたのだ。

 

旅行代理店から転職した異色の商社パーソン

大学2年生の頃、マーケティングのゼミで初めての海外となる上海の地に降り立った宍戸は、経済発展のスピードや人々の力強さ、そして日本とは全く異なる文化に魅了され、自分の知らない世界をもっと見てみたいと強く感じるようになる。以降はアルバイトで資金を貯め、バックパッカーとしてマレーシア、シンガポール、ベトナム、台湾、オーストラリアなどを回った。現地では騙されたりぼったくられたりと散々な目にもあったが、それ以上にパワフルな異文化に触れることは大きな刺激となった。就職活動の時期を迎えると、目指したのが旅行会社だったことは自然の流れだろう。

「給料もいいし、福利厚生も整っていて、海外に出る機会は減ったけれどツアーの企画などで異文化にも触れることができる。とくに不満はなかったのですが、その分、あと3年もここで働けば一生この場所で満足してしまうだろうなという、漠然とした不安にも襲われるようになりました」

恵まれ安定した環境だったからこそ芽生えた焦燥感だったのかもしれない。今の状況には満足している。しかし自分を試したいならば動くのは若い今しかない。そう考えた宍戸は、大手旅行会社を1年半で退職し、北京民族大学への短期語学留学を決意する。どうせ海外が好きなら、海外を舞台に活躍できるビジネスパーソンを目指そう。しかし英語人材は山のようにいる。ならば英語より人材が少なく、経済発展に勢いがあって、最初に宍戸を魅了した中国で勝負しよう。そう決意しての中国への旅立ちだった。

約3か月間、朝から夜まで密な語学カリキュラムをこなし、あっという間に修了の時期がやってきた。宍戸は日本企業への現地採用募集を行っているエージェントとコンタクトを取り、大手電機メーカー2社、そして商社1社の面接に挑んだ。そしていずれも内定を受けたが、宍戸がもっとも興味をひかれたのが商社、CBCであった。

「当時、北京のCBCは駐在員事務所があるのみで、日本人の駐在員が1名いて、あとは現地の中国人スタッフが10名程度という規模。そしてこれから現地法人を立ち上げようとしている状況で、すでに現地法人があった上海と広州と合わせて、三拠点で中国ビジネスを攻略しようとしている時期でした」

実は、この企業環境が決め手だった。自分は日本の大手企業を退職し、リスクを取ってこの地に来た。ならば面白い仕事をしなければもったいない。そう感じていた宍戸にとって、一からビジネスを生み出すという環境は非常に魅力的でやりがいのあるものだった。超えなければならない山が高い分、それを達成できた時には商社パーソンとしての力と、そして箔がつく。経験を積むという意味では、持ってこいのフィールドがCBCにあったわけだ。

とはいえ、単純なやりがいという表現だけでは済まない苦労も多々あった。北京におけるCBCは、当時監視カメラ事業を中心としたビジネスを展開していた。しかし現地法人設立にあたり、宍戸にはもうひとつの柱となるケミカル事業のビジネスを開拓せよというミッションが課せられた。

「正直、文系卒業の私はケミカルのケの字も分からない状態。かといって北京には監視カメラ事業の部隊しかなく、ケミカルに詳しい先輩社員もいませんでした。上海の現地法人からのサポートは期待できましたが、たまに出張で北京に来た先輩に教えを乞うのがせいぜいで、すべて自分で開拓しなければならなかったんです」

そこで宍戸は、日本から商工会議所名簿を取り寄せてリスト化し、北京・天津に工場を持つ日本のケミカル系企業に片っ端からテレアポを開始。顧客の開拓を一からスタートさせた。もちろん、中国系企業にもアタックした。しかしいずれもすでにサプライチェーンが完成しており、アポイントすらそう簡単に取ることはできなかった。

かろうじて対面で話す機会を得ても、ケミカルの知識が充分でなかった宍戸にとって相手の話はチンプンカンプン。だからといってせっかくの面会の機会を無駄にしては人脈もビジネスも作ることはできない。そのため、面会の場ではつつがなく会話をこなし、しかし実際には意味が分からずにメモを取っていた言葉を帰社後に調べ直すという綱渡りの毎日が続いた。

「頭を使って考えながら全力疾走するという日々でした。上海の駐在員と一緒に客先を回らせてもらって勉強したり、日本のCBCからの出張者のアテンドなども積極的に行い、とにかくケミカルを知る機会を作りました」

実はこの頃、前職の経験が大いに役立ったという。日本からの出張者に対し、もっとも効率よく客先を訪問するコースを設定し、交通手段から宿泊先まで最適なセッティングを行う。宍戸にとっては容易い作業だった。これは出張が有意義なものになるか否かを大きく左右するため、中国ビジネスに関わる先輩社員からは大好評だったという。その分、宍戸自身もビジネスを知る現場に立ちあう機会が増え、Win-Winの関係になることができた。無駄な経験などひとつもないと実感する時期だった。

⇒〈その2〉へ続く

 


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