ダイワボウ情報システム 重本和希
あらゆる業種業態と関わりながら
ITの可能性を追求する
中小企業に気づかされた責任を負うことの重さ
〝人で勝負し、売り込む〟。これは、重本が就活の際から仕事選びのポイントとして掲げていたテーマでもあったという。営業職を希望していたが、メーカーの場合は製品力や名前を売りにする。しかし、重本は自分で勝負がしたかったのだという。
「扱う製品さえ素晴らしければ、営業マンの魅力や技術がなくても売れるものは売れてしまう。そういう仕事ではなく製品の種類は関係なく、売る人間の魅力で斬り込んでいくような仕事がしたいと思っていました。そこには、父親の影響があったと思います。日本でも屈指の大手不動産仲介会社に勤務していた父には、幼い頃からあまり褒められた記憶がなかったんです。長男だったせいもあって、かなり厳しく育てられました。だから、そんな父に〝すごい〟と言わせるような仕事をしたいと思っていました。そのためにも、製品に頼るのではなく、自分を日々磨いて成長させられる仕事がしたいと思っていました。そんな考えにマッチしたのが商社だったわけです。当社の場合は扱うものこそIT関連と決まっていますが、今、ITを使っていない会社などほぼ皆無ですよね。しかも、拠点が日本全国にある。つまり、あらゆる業態の方と出会い、仕事ができる。人脈形成や豊かな学びにもつながると思いました」
そんな重本が次に配属されたのが、南東京第一支店。ここでは東京の中でも地元密着の中小企業がお客様であり、かつてのH社のような大手企業とは規模がまるで違った。しかし、大手企業ならばたくさんのビジネスの中のひとつでしかない取引きが、中小企業にとっては存続を揺るがすほどの影響力を持つことに気づかされた。そして、担当者の熱も格段に高い。バイタリティがあり貪欲で、〝自分がコケたら会社も潰れる〟という迫力に満ちていた。
「自分が会社のすべてを背負っている! ぐらいの、強い責任感を持って臨む彼らの姿勢を目の当たりにして、衝撃を受けました。もちろん、これまで接していた大手企業がいい加減という意味ではありません。しかし、中小企業の営業マンほどの、大きな責任と向き合っているかと言えば……。そして、自分自身の思い上がりにも気づかされました。〝製品の質や名前で売るのではなく、人間力で勝負できる商社マンを目指す〟などと思っていたけれど、よく考えれば私も〝ダイワボウの重本〟だから仕事ができているだけではないか。ダイワボウの看板を外したら、まだ何者にもなれていないと思いました。実は、私の父親は私が大学に入る直前に会社を辞めたんです。理由は、〝自分のやりたい仕事がしたいから〟。そのとき、父がどれほどの覚悟をもって大手の看板を捨てたのかも、今ならば理解できています。今でも父は、独立して興した会社を順調に続けています。まさに、人間力で勝負している。悔しいけれど、まだまだ追いつけませんね(笑)」
南東京第一支店では、他にもたくさんのことを学んだと、重本は振り返る。あるときは、事務機器系販売店B社を担当した。前任者は、10年以上もB社を担当しており、阿吽の呼吸が出来上がっていた。担当が変わってすぐの頃、見積もりを依頼されて1時間後に、B社から重本宛に電話がかかってきた。
「開口一番、『さっき送ったアレ、まだ?』ですよ(笑)。1時間って、まだ書類に目を通してもいないし、だいたい〝アレ〟では分からない。頻繁にこういうことがあって、『私の顧客はあなただけではない!』と言いそうになったこともあります。しかも、良く言えば朗らかですが、やや口の悪いお客様で、『すぐやれ!』『なにやってんだ!』などと罵声を浴びせられることもしばしばでした。しかし、考えてみれば今までスムーズに流れていた業務が、担当が変わったことで突然滞ったわけですから、先方の気持ちも理解できます。営業マンとして、前任から数字を落とすことだけは避けたかったため、足繁くB社に通い続けました。そして、先方とのコミュニケーションを積み重ねていくうちに、相手のことが理解できるようになり、また先方も私を頼ってくれるようになりました。何でも言いなりになっていたのではなく、無理な要求に対しては無理だときちんと伝えるように心がけました。むしろ、他社の方がB社にとってのメリットが高いなどの提案をしたこともあります。相手にとってベストなことは何かを常に考えながら対応し続けたことで、信頼を築くことができたように思います」
B社とは、担当が変わった今でもプライベートで酒を飲みに行くほどのつながりがあるそうだ。
「入社して以来、私は良い出会いに恵まれました。お客様に育てられ、先輩に励まされてやってきました。必ず仕事で恩返しをしなければと思っています」
⇒〈その4〉へ続く