商社の仕事人(47)その3

2018年02月28日

第一実業 岩木省吾

 

1基数十億のプラント機器販売で

世界を駆け巡る

 

 

大阪でDJK魂に目覚める

入社して丸2年が過ぎた2009年の3月、ちょうどジョブローテーションで異動の時期だった。岩木は上司に別室に呼ばれこう告げられた。「大阪に行って稼いでこい」。大阪事業本部への異動辞令だった。部署名は精機・ME実装部。エレクトロニクス業界に対して実装設備や検査装置を売る部署だった。業界、業種もガラっと変わり、扱う商材の金額も桁数と数量がまったく違っていた。ともかく数を稼がなければ売上が上がらない、今までとは違う大変な仕事だ。しかもまだ第一実業の誰も手をつけていない未開の地だった。

「それを聞いたときはほんとこの会社、無茶苦茶言うなと思いましたね(笑)」

案の定、赴任以来、長らく苦戦が続いた。毎日、それこそ朝昼夜と顧客に電話をかけまくったが、新規の会社の営業マンを簡単に繋いでくれるほど大阪の企業は甘くはない。いろんな部署をたらい回しにされる。アポが取れてようやく担当者と会えても、いや、そんなのいらないよと言われる日々。大阪のほとんどの企業にはすでに地元の商社などが張り付いており、付け入る隙が全くなかったのだ。

いくら頑張っても売り上げゼロの月が続いた。この頃が一番つらかったと岩木は振り返る。

「営業マンになって一番つらいのは、誰からも電話もメールもない日が続くこと。自分は何のために存在しているんだろうという感じですごくさみしかったですね」

同時に今まで自分がいかに恵まれていたのかも思い知った。

「入社して2年間は多くの案件を獲得していたので天狗になってたんですよね。その自信から、売り上げで部長を追い抜いてやるという勢いで大阪に乗り込んだんですが、全然うまくいかない。フラストレーションが溜まる日々でした。だけどよくよく考えると、東京で稼げていたのは、これまで先輩や上司が築いてきた土壌があったからなんですよね。いわばお膳立てがされてた中で営業をしていたからこそ稼げていた。だけど全くのゼロベースで商売をやるのって全然違う。大阪へ来てそれがようやくわかったんです」

そしてもう1つ、骨身に染みてわかったこともあった。毎日会社に通ってさえいれば、売り上げが1円だろうが100億円だろうが毎月もらえる給料は同じ。実際、給料に恥じない利益は上げていると思っていた。しかし大阪に来て以来、毎月の売り上げがほとんどゼロ。しかもどこかに出張すると経費がかかる。事実上はマイナスだ。しかし毎月、東京にいた頃と同じ額が給料として口座に振り込まれる。

「大阪に行くまでは意識がいわゆる〝サラリーマン〟だったんです。大阪で売り上げがゼロなのに給料もらうのはまずいというか胃が痛いというか……そんな気持ちになりました。だからなんとしても稼がないと、と決意を新たにしました。初めてお金を稼ぐ難しさと、〝サラリーマン〟じゃなくてちゃんとお金を稼ぐ人としての自覚は芽生えたかもしれないですね。今でもその感覚は強いです」

そこで岩木は考えた。この状況を打開するためにはどうすればいいか。そして思い切った作戦に打って出た。多くの同業他社の営業マンは大阪の工場には毎日通っている。でも大阪から遠い島根や鳥取、福井には月に1回くらいしか行かない。5年も10年も通ってたら月に1回でも顔を覚えられて商談もうまくいくが、岩木の場合はジョブローテーションで、大阪勤務は2年と限られている。なにより月々の売り上げを立てなきゃならない。

「だから鳥取や福井の工場に毎週3、4日間ほど通うことにしたんです。あなたのためにこんな不景気の中、経費をかけてきましたよと印象付けて、地元の営業マンから仕事を奪ってやろうと」

大阪にいる間になんとしても結果を出さなければ。岩木はその一心でハードな生活を送っていた。新潟に行った翌日に島根へ、なんてザラだった。経費削減のため移動手段は社用車、もちろんすべて日帰りだった。

「もう生活は無茶苦茶でしたね。あの頃は毎日3時間くらいしか寝てませんでした。当時は精神的につらすぎてこんな会社辞めてやろうと毎日思っていました。大阪事業本部勤務なのにちっとも大阪にいないし(笑)。だけどそこにわずかでも、たとえ5万、10万でも得られるチャンスがあるんだったら取りにいく。せめて自分の食い扶持分くらいは稼がないと、という思いしかなかったので」

それだけに初めて顧客から注文をもらったときはうれしかった。自分の給料を少しでも自分の力で稼げたという意識をもてた。足繁く通った島根の工場だった。

「そのときにうれしかったのが、こちらの見積り額よりも高い金額で発注してくれたこと。さらにビジネスの〝貸し借り〟というものはこういうふうにやるんだなと学びました。今度はこちらが返さなきゃと思いますからね」

しかし上司はなかなか認めてくれなかった。費用対効果が悪すぎたからだ。さらに岩木は会議にも出なかった。上司は組織としての秩序が守れないからちゃんと会議に出ろと再三岩木に言ったが、それも突っぱねた。

「会議に出たら売上の目標を減らしてくれるんですか? お客さんを紹介してくれるんですか? と口答えばかりしていました。今思うと恥ずかしい限りなんですが、大阪にいられる間に何としても結果を出さねばと必死だったんです」

当然上司との関係は険悪になった。しかし仕事以外の飲みの席などで、いかに未開の地を開拓することが難しいか、一番大事なことは会議に出ることじゃなくてお金を稼ぐ、つまり営業に出ることなんだと根気よく説明すると、上司の態度も軟化した。

その後もなかなか売り上げが伸びないつらい時期は続いたが、あるとき島根の工場の主任に掛けられた言葉に救われた。

「ものすごく厳しい人だったんですが、一緒に飲みに行ったとき、〝お前の仕事でこういうことが改善されてすごく助かっているんだ〟という、僕が商品を売った後のストーリーを教えてくれたんです」

顧客に商品を売ったその先を共有するといろんなことがわかってくる。なぜ納期がこんなに厳しいのか。なぜこのタイミングでこの人がこんなお願いをしてくるのか。自分の売った商品がどう使われて、その結果社会が変わっていくという「その先」が数珠つなぎのように見えるようになった。つまり、「なんのために」という自分の仕事の意義がはっきりわかったのだ。だからどんなにつらくても苦しくても頑張れた。仕事を続けるモチベーションになった。

そして、そういう考え方に変わってからお客様との会話も変わってきて、段々と受注件数も増えていった。最初に岩木から商品を買ってくれた島根の工場の主任は、その後も必要とは思えない物も買ってくれた。値引き交渉もせず、オレは岩木から買うわ、と。やはりビジネスで最後にモノを言うのは「人」なのだ。

大阪に赴任してちょうど2年が経った。ジョブローテーションによって、再び東京本社への異動辞令が出た。そのとき岩木のために島根で盛大に送別会が開かれた。岩木のために、多くの人が集まってくれ、今までの労をねぎらってくれた。昨年結婚したときには島根のたくさんの会社から祝電やお酒などが大量に届いた。

「涙が出るほどうれしかったですね。今でも続く、仕事だけではない関係性を築けたことがよかったと思いますね」

つらく苦しい2年間だったが、その分得るものも大きかった。

「私の5年間のキャリアの中で、1万円、5万円を必死に1000個稼ぐ営業と50億円を一発で稼ぐ営業の両極端を経験できたことは大きな財産だと思っています。ゼロから自分で顧客を開拓したことで、サラリーマン根性を捨て去ることもできたので、大阪での体験は本当によかったと思っています」

⇒〈その4〉へ続く

 


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