長瀬産業 廣田孝介
各国現地法人との協業で
新たな価値を生み出す
たった4名の駐在員事務所
ベトナムのハノイは、中国国境から2時間ほどの位置にある。廣田は、学生時代にアジア各国を旅した経験があったが、ベトナムには一度も訪れたことがなかったという。それが、旅行を飛び越えて駐在員として暮らすことになるのだから、不安も大きかったのではないか。
「まったく心配していなかったと言えば嘘になりますが、あまり知らない国だったからこそ、怖いもの知らずの感覚で生活ができたのかもしれません。それと、最初の1年間は仕事が忙しすぎて、異国の街の様子に気を配る余裕もなかったんです(笑)」
長瀬産業のハノイ駐在事務所は、オフィスビルの一室にあった。1Kのような間取りで、広さは50平米ほど。そして、ベトナム人の事務員が2名と、廣田を含めて日本人が2名の、計4名という少人数の事務所だった。
「たった4名なら50平米で充分と思われるでしょうが、実は他にも、合弁企業の立ち上げメンバーが8名ほど間借りしていて、デスクなども入るとギュウギュウの状態でした」
廣田は合成樹脂の事業部だったが、少人数の事務所ゆえに、事業部の枠を飛び越えて、あらゆる業界のお客様を担当しなければならなかった。さらに当時は、中国一国に投資を集中させず、他国へも一定規模の投資を行いリスクの分散化を図る「チャイナ・プラス・ワン」として、ベトナムは世界から注目されていた。そのため、廣田は猛烈に忙しい毎日を送ることを余儀なくされた。
「ハノイの事務所には、すでにA社という巨大なアカウントがありました。そして、私に課せられたミッションとしては、A社以外のポテンシャルをすべてビジネスにつなげろ、ということだったんです」
とはいえ、駐在したばかりの廣田には、〝語学〟という壁が大きく立ちはだかった。日常会話レベルでは不自由はなかったが、膨大な量のビジネスメールを処理するには、まだスキルが足りていなかった。例えば、重要な要件かもしれないと思い、じっくり読み込んだメールが単なる季節の挨拶だったなど、ただでさえ少ない時間を無駄にしてしまうことも度々あったという。
「とてつもないスピードの中で、情報の取捨選択ができなかったのがかなりのストレスでしたね。処理しなければならない数量・物量も増えるし、駐在員として出張者のアテンドも多いのに、大切な業務の時間が自分の至らなさのせいで短くなっていくことが悔しくて。それでも、走り続けているうちに何とかなるものなんです。気がつけば、事務所の狭さも、怒濤のような忙しさも当たり前に感じるようになっていました。2年目になって初めて、〝自分の家が暮らしにくい場所にある〟ということに気づいたりして。正直最初の1年間は、仕事も私生活も、どんな風に過ごしていたのか詳しくは思い出せないぐらいなんです」
2年目になると、駐在員も増え、またベトナム人のスタッフも増員し、仕事も回り出した。もちろん、忙しさに変わりはなかったが、〝海外で経験を積ませて成長を促す〟という事業部の思惑通り、廣田のビジネスパーソンとしての体力はどんどん強化されていったのだ。
「ハノイでも、月に何度かは東南アジアや中国などへの出張がありました。ベトナムは人件費が安く組み立ての拠点ではありましたが、原材料やその他のこまごまとした部品がなかった。そういうものは海外から入ってきて、ベトナムで組み立てが行われ、世界へと運ばれていくという流れでした。日本やアメリカで研究開発を行い、ベトナムで量産体制を組む。そのため、ベトナムへの原材料供給という部分で、海外メーカーへの出張や取り引きが多かったですね」
⇒〈その3〉へ続く