長瀬産業 廣田孝介
各国現地法人との協業で
新たな価値を生み出す
難航する合弁企業立ち上げ
4年目、ハノイ駐在員事務所は、「Nagase Vietnam Co., Ltd.」として現地法人となった。持ち前の負けん気と冷静な判断力によって、ハノイを拠点に世界を飛び回り、知識と経験を積み重ね続けた廣田。しかし、すべてが順調だったわけではない。振り返ると、今でも当時の苦しさを思い出すという、印象深い仕事があると教えてくれた。
「商社の役割として昔からある仲介ビジネスだけでは、なかなか儲からない。そればかりか、商社の価値を見い出してもらえない時代です。そのため、長瀬産業としては製造業に投資し、プラスαの価値を付けて提供する機能を育てています。例えば、合成樹脂を買ってきて納入、という単純な仕事ではなく、そこに色を付けるとか、機能を強化するなど物性を変化させて提供するという、ものづくりの機能です。当時、長瀬産業が営業を担当し、パートナーである化学会社N社が製造と品質管理を行う、合成樹脂の合弁企業が立ち上がっていました。チャイナ・プラス・ワンで進出が続く、ベトナムでの輸出加工企業向けビジネスを想定してのことです」
ところが、競合に比べて進出が一歩遅れたこともあり、想定していた仕事量を確保できなかった。
〝長瀬産業がビジネスになるというから進出したのに、売上げがまったく伸びないじゃないか!〟
〝そちらが仕事を選ぶから、売り上げが伸びないのでは!?〟
3か月に一度は関係者が各地からベトナムに集合し、運営会議を実施。時には怒声を交えながら、喧々囂々の議論が尽くされた。
「当時のハノイでは、まだ整ったレストランやバーなどが多くはなく、日本から来たお客様でもパートナーでも、昼食や夕食のアテンドをするのが常識でした。しかし、この時ばかりは食事も別々という最悪の事態。ベトナムマーケットが伸びることへの確信に変わりはありませんでした。しかし、この合弁事業に限っては、本当に上手く行くのだろうかと、不安な気持ちに襲われました」
日本からやってくる本社のスタッフを交えての会議は、毎回が修羅場のようだった。ただし、このような状況である一方、廣田と、そしてN社のベトナム駐在員は一枚岩だった。運営会議で叩かれても、とにかく黒字にしなければ自分たちの存在価値はない。
「バイクや家電を中心とした、ベトナム内需向けのビジネスも提案しました。輸出加工というビジネスと比べると商社である我々が提供できる付加価値は低く、当初は想定していませんでしたが、小さな案件を1つひとつ積み重ねながら機会を待ちました。当初は、このような付加価値の低い仕事に否定的な意見もありましたが、そんなことは言っていられません。〝グルになって〟という表現は言葉が悪いですが、私とN社の駐在員とで、本社の人間を説得して着々と進めました」
もちろん、同時進行で、輸出加工品の試作品を地道に作る日々が1年ほど続いたという。やがて、8800万人というベトナムの内需向け需要が爆発。幸運も重なり、時を同じくして輸出加工業も上向きとなった。諦めず、耐えて、攻め抜いたからこその結果だった。のちに、想定していた利益も上回り、合弁企業はN社の数ある海外工場の中から、社長賞を獲得するまでに至ったそうだ。
「チャレンジングなビジネスを行うとき、1社だけでできることは、限られてしまうことが多いです。もともと、物を持っているわけではない商社が、価値あるビジネスを生み出すには、様々な企業、そして人との協力が不可欠であることを、身に染みて感じた出来事でした」
当時、運営会議で激論を戦わせたN社の社員とは、今でも付き合いが続いているという。
「食事ももちろん一緒にしていますよ(笑)。ゴルフにも出かけるようになり、〝あの頃は大変だったねえ〟などとしみじみと語り合う仲に。今でも定期的な運営会議を開いていて、ベトナムに次ぐ新興国での協業も実現するかもしれません」
⇒〈その4〉へ続く