稲畑産業 石光賢信
ビジネスは
ゼロから∞が醍醐味
いくつもの壁を乗り越え、事業を育て上げる
だが技術的なアドバンテージがあるからといって、簡単に売れるわけではない。ミクロン単位の高精度な品質管理を求められる液晶産業はトラブルに厳しく、業界は保守的にならざるを得ない。何かあった時にどれだけ確実に対処できるかというリスクヘッジも、仕入れ先を評価する大きな物差しだ。その意味で石光が扱う保護フィルムは、聞き慣れない米メーカー製である部分がハンデとなった。
「サプライヤーが地理的に遠いということだけでなく、日本とアメリカでは当然ながら企業文化が違いますからね。同じトラブルに対する考え方、温度差も異なる。何かあれば私がすぐ向こうの担当者にメールや電話などで連絡するわけですが、らちが明かなければアメリカに乗り込みました。場合によってはお客様にも同行してもらい、面と向かい合ってこちらの温度感を直接伝えるわけです」
そうした臨機応変なコミュニケーションを通じてA社側も、やがて日本メーカーの考え方や対応を学習していった。石光自身もまた各方面とのやり取りから、液晶業界についていっそう深く学ぶことができたという。
石光の苦労はほかにもあった。保護フィルム事業と並行して、それまでの担当も全て同時にこなしていたからだ。当然、日々の作業量は膨大になっていく。 「既存の担当は昼間のうちにこなして、夜になったらアメリカとやり取り、といったことをしていました。向こうが稼働し始めるのは夜ですからね(笑)。睡眠時間が2〜3時間という日も続きましたよ」
このハードな勤務を支えたのは、自分が任されて育ててきた案件という強い思い入れだ。
「当初はこのビジネスがどんな結果になるか、社内でも予想できない状態からのスタートでした。ゼロが1になるか5になるか、またはゼロのままで終わってしまうか…。しかし有望な商材を、自分がゼロから育てて市場に認知させたいという思い入れが強かった。進めるうちに確実な手応えも掴めるようになりましたしね。ですから大変だとは感じていましたが、早く家に帰りたいとは思いませんでした。むしろその日のうちに最低限済ませなくてはいけないことを残したまま帰宅して寝るほうが、精神衛生上よくなかったと思います」
もちろん上司のサポートもあった。
「当時は思い入れと若さで突っ走っていた部分もありましたから、後を見るといろんなものが落ちていたり(笑)。それを上司が拾い上げてくれるわけです。またA社の案件もそうですが、部長クラスやそれ以上なら、我々担当者レベルでは不可能なスケールの大きな構想を描けますしね。そうした部分も含めて、会社として後押ししてもらっていました」
当初手探り状態だったのは、A社側も同じだったようだ。ビジネスを進めるうちに稲畑産業のパフォーマンスが高く評価され、韓国、台湾、さらに中国といったアジア市場への進出も任されることに。また契約の諸条件も見直され、より自由かつ有利にビジネス展開できるようになっていった。
⇒〈その4〉へ続く