岩谷産業 村尾研吾
広い視野で果敢に
日本のエネルギービジネスに
挑戦する
地道な営業回りに徹した2年間
カセットこんろで広く知られる岩谷産業。だが事業領域はLPガスをはじめとするエネルギー事業を中心に、モノづくりに不可欠な産業ガス事業、電子部品・装置、高機能樹脂、さらにレアアースや食品まで幅広い。村尾と岩谷産業を結びつけたのも、実は本流のエネルギーではなく食品だった。
「当初は食品業界に絞って就職活動していたんです。食品を選んだのは、食いっぱぐれないだろうという単純な安定志向からでした」
村尾が就職した1998年は新規求人倍率が0.9まで低下した、いわゆる就職氷河期。多くの学生が安定志向から食品メーカーなどを目指した時代だ。そうしたなか、岩谷産業でも食品を扱っていると耳にしたのが同社と出会うきっかけだった。
「ただし面接で食品がやりたいと言っていたものの、実際に配属されたのは福岡にある支社のエネルギーの営業部門でしたが(笑)」
村尾は以後、一貫してエネルギー部門でキャリアを磨いていくことになる。
福岡で最初に任されたのは民生用のLPガス、いわゆる家庭用プロパンガスを各家庭に販売する卸業者に対する新規開拓の営業だ。まず最初の1か月は先輩の営業に同行。その後は訪問先のリストにしたがって一人で飛び込み営業に専念する日々が始まった。
いうまでもなく同社はこの分野でも最大手だが、新規開拓は決して楽な仕事ではなかった。
「ガスはどこから仕入れたって同じようなガスだろ。わざわざ替えるだけ手間なんだよ」
「○○さんには昔助けてもらった恩があるからね。うちは絶対替えないよ」
卸業者は共納といって、複数の供給元から仕入れている。そのため供給元同士の競合が激しい。しかも村尾が任されたのは、これまで取引がなかった全くの新規。すでに安定しているところへ割って入って納入枠を奪い合うことになるので、大抵は面倒がられて門前払いされてしまう。
さらにもうひとつ、大きな障壁があった。村尾が任されたエリアは、岩谷産業と過去に「因縁」があったのだ。そこは70年代のオイルショックで深刻な供給不足に陥った時、やむを得ず取引ができなくなったエリアだった。会社としては安定供給の責任があるので、物理的に供給が不可能になればつき合いが薄いところから手を引かざるを得ない。だが当然、相手からは快く思われない。
「よく顔を出せたな。あの時、岩谷が何をしたか覚えているのか!」
村尾の担当は過去に付き合いのなかった卸業者だったが、中には飛び込みで訪れた訪問先で名刺を破り捨てられることさえあった。オイルショックは30年以上前のことだが、村尾はビジネスで一度根付いた不信がそう簡単に消えないことを、嫌というほど思い知らされた。
困難なエリアで成績が出せないまま訪問先リストも次第に減っていき、焦燥が募る日々――。最初の新規契約にこぎ着けたのは、ようやく入社2年目の初夏のことだった。
「当時は少しでも感触がつかめそうなところを絞り込んで訪問を繰り返していました。その卸業者さんにも毎週通って、受付の女性たちに当社が扱っている洗剤や健康食品などを買っていただくなど親しくさせてもらっていたんです」
やがて数か月経った後、普段は滅多にいない社長と接する機会を得る。たまたま時間があるというので、話を聞いてもらえたのだ。しかし歓びもつかの間、当時の村尾は聞かれたことにほとんど答えることができなかった。さらに何度か面談を経た後、転機が訪れた。村尾の話に関心を持った社長が、岩谷産業社長の講演を聞くために、東京へ行ってくれたのだ。
「お宅の社長の話、おもしろかったよ。いろいろ考えて幅広く事業をやっているんだね。お宅とは安心してお付き合いできそうだ。これからよろしく頼むよ」
いわば村尾が説明不足であった点を社長が補完してくれた格好だ。1年以上かかってようやく手にした新規獲得。プレッシャーに苛まれ続けてきた村尾にとって、初めてビジネスの光明を得た瞬間だった。
⇒〈その3〉へ続く