豊島 松鐘幸生
がむしゃらの先にしか
見えないステージへ
一流バイヤーに叱咤され鍛えられる
やがて、東京1部2課は他の部署に吸収合併される形となり、松鐘もそのままスライドするものとばかり思っていた。しかし、花形部署である東京3部4課への声がかかったのだという。
「嬉しかったことは確かですが、自分にレディースの知識がないことを認識してからは、それどころではなくなりました。素材の勉強から営業のノウハウ、サイクルの早いレディースブランドを扱う商社マンとしてのモチベーションの保ち方などを、丸1年かけて学んでいきました。なりふり構ってなどいられませんから、私より年下の後輩にも教えを請いました」
やがて、大手セレクトショップ「B社」を任されることになった松鐘だが、レディースの知識は補完できたものの、仕事の進め方の点においてまだ至らない部分が多かった。相手は、大手の優秀なバイヤーたち。しかも、そのほとんどが女性である。高い意識を持って厳しく仕事に臨んでいるプロフェッショナルだ。人生の中で、あの頃ほど人に怒られたことはないと松鐘は振り返る。
「何よりも、私の要領が非常に悪かったんです。まず、業務のスケジューリングができていなかった。私が扱う商品は、私がこの手で作っているのではなく、海外の工場との密なやりとりの中で製造を進めていくものです。それも、何種類もの商品を。ところが当時の私は、工場からいつ、どの商品のサンプルが届くのかも把握し切れていなかった。単純に、私が工場のコントロールをしっかりと行えば済む話なのですが、その力量もなかった。結局、バラバラとサンプルが届けられる。そして、届いたそばからお客様のもとへ走り、商品を見せて細かい打ち合わせをして会社に戻ると、また別のサンプルが届いていて再びお客様のもとへ。何とも下手な仕事の仕方をしていたんです」
当然、バイヤーたちにもイライラが募る。あの商品はいつまでに届くのか、こっちの商品はまだ時間があるのになぜ今? 等々、日々怒られていたそうだ。しかし、それでも松鐘の〝一生懸命さ〟は伝わっていた。厳しく指導しながらも、分からないことはすべて教えるから何でも聞きなさいと、頼りになる言葉もかけてもらったという。
「今思い出しても、鈍くさい商社マンだったと恥ずかしくなります。けれど、実際に顔を出し、お客様と直接言葉を交わす時間を1日に何度も設けられたことで、人間関係は強固に築き上げられていったと思います。実は今現在、私に担当としてついてくれているデザイナーは、当時私を叱ってくれていたバイヤーだった方なんです」
豊島には、アパレルや小売に対して素材の選定やデザインの創作を行い、これをプレゼンする提案型の業務もある。そのため、豊島マンは優秀なデザイナーとタッグを組むことが必要になる。そんな〝相棒〟となるデザイナーが、かつて取り引きをしていたバイヤーというのは、いかに当時の松鐘が人間関係を大切にしていたかが分かるエピソードだ。
レディースブランドの面白さをヒシヒシと感じ始めていた松鐘は、これを機に、さらにがむしゃらに仕事へとのめり込んでいく。しかし、その一途さが自身を窮地に追い込むことになってしまう。
⇒〈その3〉へ続く