三谷商事 鳴海賢一
自分一人ではなく、
仲間と一緒に成長していく!
魅力的な先輩たちに出会う
今でこそ、東京の生コン・セメント業界で一目置かれる存在となった鳴海だが、就活中からこの業界を志望していたわけではない。なんとなく「営業の仕事がしたい」と思ってはいたものの、業界研究に熱心だったわけでもなく、まして建設資材を扱うなど当初は考えもしなかった。
ただ1つ「商社で働きたい」という気持ちだけは早い段階からはっきりしていた。
メーカーであれば、基本的に自社の商品しか売ることができないが、商社であれば、さまざまな商品を仕入れ、売ることができる。そんな商売としての幅広さに魅力を感じていたのだ。
鳴海はいくつかの商社から内定を取り、中には大手も含まれていたが、内定をもらった後に「ぜひ、うちに来て欲しい」とわざわざ連絡をくれたのは三谷商事だけだった。バブル期の超売り手市場の時代ならまだしも、内定を出した学生にわざわざ連絡を取り「ウチに来て欲しい」と〝気持ち〟を伝える企業は少ない。鳴海にはそれが嬉しかった。
「せっかく働くなら、求められているところで働きたい」。それが決め手だった。
「内定が決まってから(入社後の研修中も含め)、鳴海はたくさんの魅力的な先輩たちに出会う。その多くが生コン・セメントを扱う建材事業部の社員だったこともあり、いつしか鳴海も「オレもこのカッコ良い先輩たちのように働きたい」と思うようになり、建材事業部への希望を出した。
この業界に飛び込んでみて、強烈に感じたのは「ここは、人と人のつながりがモノを言う世界だ」ということだった。どんな世界でも人とのつながりは大切だが、その程度がこの業界は半端ではない。
じつは、生コン・セメントというのはあまり差別化の利かない商材である。品質に極端な差がつくわけでもなければ、価格差も小さい。では、いったいどこで差が生まれるのか。
それが「人」だった。
仕入れにしても、営業にしても、「鳴海君だから買うよ」「鳴海君なら、言い値でいいよ」と言われるようにならなければ、この業界ではやっていけない。事実、お客様のなかには「値段で買うんじゃないよ。オマエから買うんだよ」と熱い言葉をかけてくれる人もいる。
入社当時、営業成績がぶっちぎりのトップで、鳴海が尊敬する先輩がいたのだが、その人は夕方6時以降に会社にいることはほとんどなかった。いつも仕入先やお客様と会い、コツコツと人間関係を築いていたのだ。
「鳴海、この仕事は人だぞ!」
ときに言葉で、ときに背中で、先輩は大事なことを鳴海に教えてくれた。
その先輩だけではない。三谷商事には「責任はオレが取るから、思い切ってやってみろ」というスタンスで、新人の鳴海に大きな仕事を任せてくれる先輩が何人もいた。そうやって若手を育てるのは、言わば〝三谷の社風〟なのだ。
新人時代のある日、「現場管理はオマエに任せるから」と突然先輩に言われたことがあった。
現場管理とは、文字通り現場の一切を取り仕切る役割だが、新人にとっては決して簡単な仕事はない。たとえば、先輩が受けた生コンの受注を納入する際に、お客様である現場監督と綿密な打ち合わせをし、トラックで運び入れるための段取りを組むという仕事がある。
「生コンをトラックで運ぶ手配をし、納品するだけ」と安易に考えてはいけない。これが一筋縄ではいかないのだ。
建設現場にとって、生コンを入れる作業日は非常に大事な行程である。タイミングよく生コンを運び込み、決して工事の妨げになってはいけない。
ただし、生コンを積んだトラックは1台や2台ではない。20台、30台というトラックを、順序よく、適切な間隔を空け、滞りなく現場に到着させなければいけないのだ。トラックが遅れれば現場に迷惑をかけるし、といって何台ものトラックが早く着き過ぎたら、今度は駐車スペースがない。
その難しく、責任の重い役割を先輩は鳴海に託した。
経験の浅い鳴海が、現場管理を完璧にこなすことなどできるわけがない。しかし、何かあればすぐに現場に飛んでいって、できることを必死にやる。やれることが何もなければ、せめてスポーツドリンクを買って、現場の人たちに配る。そうやってなんとか仕事を完遂していくなかで、現場の人たちに顔を覚えて貰い、人となりを認めてもらう。
先輩は、そんな経験を鳴海にさせてくれたのだった。
「営業も、仕入れも、現場管理も行き着くところは同じなんだよ。もし何かあったときに、適切な対処をすることはもちろん大事だ。だけど、それと同じくらい『鳴海君がやってダメなら仕方ないな』『鳴海だから、お願いしよう』と相手に思ってもらうことが大事なんだよ」
鳴海はこの仕事の神髄に、少しだけ触れたような気がしていた。
⇒〈その3〉へ続く