第一実業 小番俊幸
異国の地で孤独に打ち勝ち
大きく成長
欧州の新拠点・ハンガリーへ
当時開設されたばかりのブダペスト事務所において、日本人は所長である小番のみで、他はハンガリー人の部下が3名という小規模な事務所だった。小規模であっても小番は一事務所の所長として、強い責任感を持って働く生活が始まった。
「周囲にこの話をすると、突然所長の辞令を受けたことを驚かれますが、むしろ私は当時29歳だった自分に新設のブダペスト事務所を任せてくれた、第一実業の度量の大きさを感じました」
第一実業のビジネス戦略は、大きく分けて商品軸と顧客軸の2つがある。商品軸は各商品を軸にして幅広い企業に売り込んでいく多角的戦略のことで、顧客軸は日系企業が海外に進出する際に算出される設備投資額のうち、第一実業が何割占められるかをターゲットにする戦略のことである。
中国やアジアなどの地域は第一実業が進出してからの歴史も長く、現地スタッフも増加したため、商品軸による専門的な販売体制が構築されていた。それに対し欧州はとにかく小規模体であったため、顧客軸で攻めていく方が多かった。
「顧客軸は博打のようなもので、欧州に初めて進出する企業の第1期投資のうち何割かのシェアを獲得することができると、その後も事業規模の拡大が続き、しばらくは利益を得ることができます。逆に言うと、投資が止まれば利益もゼロになってしまうので、人材とコストのバランスを考えながら商品軸でも利益を上げて、常に安定的な収益を維持していかなければなりません」
また、欧州という広大な大陸に営業先の工場は点々としている。特に日系企業は各都市の郊外に工場を建設することがほとんどであるため、移動手段はほぼ車に限定される。
「1日に1000キロ走ることは普通にありました。それでも1日に訪問できる工場は1、2件ですから、体力的にも過酷でした」
過酷なのは移動だけではない。工場建設が佳境になると、さまざまな設備を一度に納入する際に予期せぬトラブルが起こることもある。そのトラブル改善の調整は困難を極めるのだ。
「お客様から、『こういうときのために第一実業さんにお願いしているのだから、早く何とかしてください』と強く要望を受けることも多々ありました。我々に発注してくださる現地の日系企業は、勝手がわからない自分たちに代わって第一実業が欧州の請負先との間に立ち、こちらの意図を正しく相手に伝えることでビジネスを円滑に進めてくれる、という点で我々に付加価値を見出してくださっているのです。その責任をきちんと果たさなければなりません」
当時の小番はまだ29歳。事務所長として務めるには若いほうだったが、海外企業の社長と対等に渡り合わなければならないことも多く、常にプレッシャーを感じていた。そして小番が最もつらく感じたのは、「孤独」だったという。
「日系企業相手とはいえ、第一実業が踏み入れたことのないハンガリーの地でゼロからビジネスを始めることになり、日本人は私だけでしたのでとにかく孤独感が大きかったです。ロンドン支店に上司がおりましたが、毎日電話で話すわけにもいかなかったですしね。孤独を紛らわす唯一の方法は、私と同じような立場にある他社の駐在員の方と時々会って話すことくらいでした」
体力的にも精神的にも疲労困憊する日々を乗り越えようとしていたのは、胸に込めたある決意があったからだった。
「このような若手の自分に海外の一事務所を任せてくれた会社の期待になんとか応えたいという気持ちが強かったです。それから、苦労して立ち上げた事務所の業績が伸びず閉鎖されるようなことになっては、働いている現地スタッフは職を失い路頭に迷うことになる。それだけは絶対に避けなければという一心で必死に踏ん張っていました」
第一実業のグローバル展開は、ビジネスチャンスがある地域に拠点を設置し事業の拡大を図るが、拡大の見込みがなくなれば拠点を閉鎖することも有り得る。小番は常に重いプレッシャーを感じつつ、任された責務を全うするための努力を怠ることはなかった。
ある時、スロバキアに進出する日系企業から大口案件の商談が舞い込んだ。結果的に工場建設の受注はゼネコンに取られてしまったが、ほとんどの設備については受注獲得に成功し、より良い商材を提供するために欧州中の仕入先を駆け回った。
「これまで大規模なプロジェクトに関わる受注はほとんどなかっただけに、お客様に信用されて任されたことは非常にうれしくありがたかったですね。大きな達成感もありました」
やがてブダペスト事務所は、1つの部門としての生産性において第一実業グループの中でトップとなった。小規模事務所としては快挙といえるが、小番は周囲の支援があったからこそと謙虚な気持ちでいた。
そしてブダペスト事務所に赴任して3年が経ったとき、小番はドイツの現地法人へ異動となった。
「事務所を後任に引き継げるように維持できたことはうれしかったですね。会社業績に大きく寄与するほどの利益は上げられませんでしたが、一応、所長としての責務は全うできたかな、という感覚です」
ドイツの現地法人・第一実業(欧州)にて3年間従事し、次には第一実業(タイ)への辞令が下った。欧州からアジアへ。言語も習慣も異なる地で新たな挑戦が始まる。タイは日系企業が多く進出し、モノづくりの主戦場と位置付けされていた。
「欧州での6年間は納得のいく業績を上げられていなかったので、どこかのタイミングで帰国を命じられるのは覚悟していました。しかし、まさかタイへ異動となるとは全く思っていませんでしたね。正直、かなり驚きました」
当時、小番は自身がタイで仕事をするイメージを全く持っていなかった。しかし与えられたチャンスは存分に生かしたいと、海外でのビジネスの醍醐味を味わった小番は一気にスイッチを入れ替えた。タイでも成果を出そう、そう覚悟した。
折しも、その時タイでは記録的な大雨による大洪水が起こっていた。タイの現地企業はもとより、日系企業も大打撃を受けていた。洪水で街中が浸水しているニュース映像をドイツで目にしながら「こんな状況で本当にタイに行けるのか」と不安に思った。
そして2010年10月、小番は洪水の爪跡が生々しく残るタイ・バンコクの地に降り立った。
⇒〈その4〉へ続く