蝶理 松下友和
バングラデシュでのモノ作りに
熱い思いを燃やす
【略歴】
1979年、大阪府生まれ。立命館大学産業社会学部卒。2003年入社。
ユニフォームの新しい需要の掘り起こしがミッション
「松下君、君にはこれから新規ビジネスの立ち上げに専念してもらう。他のことはいいから、とにかくそのことだけに集中してくれ。出来るだけ早く結果を出して欲しい」
入社3年目の2005年にユニフォーム部に配属となって以来、民間向けユニフォームをメインに取り扱ってきた松下が、上司からそんな命令を受けたのは3年前のことだった。確かに厳しい要請ではあった。しかし、将来につながるビジネスの構築を自らの目標としている松下にとっては、まさにビッグチャンスの到来でもあった。臆することなく松下は答えた。
「ぜひ、やらせてください!」
自分たちが今まで培って来たことで何が出来るか、松下は早速行動を開始した。ユニフォームは、企業にとっては経費の1つで、景気が低迷するとどうしてもコスト削減の対象にされてしまう。景気が低迷する中では、必然的に商品の値引きが求められる。結果的にマーケットは縮小を余儀なくされていた。そういう背景があっての上司の命令でもあったのだ。
そんな中で、居酒屋ではTシャツがユニフォームに転用されるなど、ユニフォームの軽装化の流れが顕著になって来ていた。ちょうど省エネのためにクールビズが叫ばれてもいたので、今後、ユニフォームはしっかりとした従来型のものから軽装化されたものへと移行して行くことは、時代の流れであった。
「私たちにとっては新たなビジネスチャンスが生まれて来ていたわけですが、いかんせんまだ供給者が少なかったのです。従来型のユニフォームの供給者からすれば、新しいタイプのユニフォームは単価が安いので、自分たちの特色が出し難いし、既存の商売を守りたいという思いもあるので、なかなか移行できません。また、ユニフォームの分野以外のアパレルメーカーにとっては、ユニフォームに求められる特性を熟知していないために参入が難しいという状況があります。しかし、ユニフォームに熟知した私たちと組めば、お互いにwin-winの関係になって、日本における新しいユニフォームの需要を掘り起こすことができる、私は、そう確信していました」
そのためにはユニフォームに求められる品質基準をクリアし、より競争力のある価格を提示できるようなモノ作りを実現しなければならない。質と量を安定的に供給する、何処で縫製を行うかが重要なポイントであった。当時縫製工場は中国が中心であった。その中国では、沿岸部では既に工員を確保できず、縫製工場の内陸部へのシフトが加速化されており、しかも取り扱うアイテムも高級品に絞り込み始めていた。業界では縫製工場を中国からベトナムなど東南アジアへと大きくシフトしようとしていた。チャイナ・プラスワンである。しかし、松下はまったく違うところに目をつけていた。その地はバングラデシュである。
「現状でもメリットは薄いですし、中国からベトナムへシフトしたとしても、3年後や5年後にまた同じことを心配しなければなりません。セールスポイントとしても弱いので、まだ誰も出て行っていないような所へ一気に出て行こうと思ったのです。それがバングラデシュにした決め手でした」
この決断は、まったく当てずっぽうと言うわけではない。蝶理では他社に先駆けて、バングラデシュに事務所を開設した。バングラデシュとのビジネスはすでに開始されていたのだ。バングラデシュは国内の産業の86%が繊維関係という〝繊維大国〟だ。また日本に輸入する商品については関税が掛からないし、人件費が中国の約4分の1だということも分かっていた。会社としてもバングラデシュでの新しいビジネスの展開は、大きな検討課題だった。松下はしたたかに作戦を練った。自分の考え・プランと会社の方向性は完全に一致している。松下は自信を持って上司に提案することが出来た。
「分かった。松下君、それでやってみよう。会社の期待も掛かっているから、頑張ってくれよ!」
上司の言葉に松下は力強く頷いた。新しいビジネスを開拓する苦労は覚悟の上だ。
それでも、それが想像以上であることを、松下はまだ知らない。
⇒〈その2〉へ続く