岩谷産業 齋藤良輔
新しいエネルギー市場を視野に
ポリシーを持って全力投球
チャレンジ精神あふれるバイタリティ、少年時代は野球の全日本代表にも選出
齋藤のバイタリティ、チャレンジ精神は、意外な方面でも社内の話題になっている。入社4年目の2008年、彼は同期の社員とコンビで漫才コンテスト「M―1グランプリ」に出場した。
「別に深い意味はないんです。経験した者こそ語ることができるという思いで出場しました。少しでも勝つ確率を上げようと、大阪は避けて名古屋大会に出場しました。相方はその日、海外出張から帰国したその足で出場したんですよ(笑)。社員も応援してくれて、名古屋から約10人、大阪からも約10人、会場に駆けつけてくれました」
合宿までして考えたというサラリーマンネタで挑み、見事一次審査クリア。大勢のプロを含む出場者約4500組から約500組に絞られる二次審査へ進むという成績を残した。
また齋藤は、小学2年生から野球に打ち込み、中学生時代には全日本代表に選ばれた経歴も持つ。ポジションは投手で海外遠征に赴いたこともある。当時は真剣にプロ野球選手を目指していたが、中学2年生の時に肩と肘を傷めるトラブルに見舞われた。
「私はいわゆる『水飲むな世代』のぎりぎり最後に当たる世代。科学的にケアしながらトレーニングする今と違って、痛くても無理に投げ続けなければいけなかったんです」
全日本代表の投手だった齋藤の下には、高校野球の名門校からいくつもオファーが来ていた。だが肩の故障で中学3年生の時に手術。それを境に、進学の誘いはぱったり途絶える。プロはもちろん甲子園出場の夢さえ潰えたが、野球を諦めることはなかった。
「高校で軟式に転向したんです。最初はすごく弱いチームだったんですが、成果として全国大会へ初出場し準優勝という結果を残すことができました」
大学では一転して、ストリートダンスのサークル活動に打ち込む。また同時にバッグパッカーとして、アジアを中心に訪ね歩いた。とりわけ惚れ込んだのはタイだ。
「スキューバダイビングのショップの日本人経営者と親しくなって、仕事を手伝う代わりに居候させてもらっていました。世界各国から人が来るので、欧米人から『将来一緒に仕事をしよう』と名刺をもらったり、海外を股にかけたビジネスに自然と触れていたのです」
⇒〈その3〉へ続く