双日 阪本旬二
熱き魂をもって、
その一歩を踏み出せ!
熱き血潮の一次面接
兵庫県の西宮市に生まれた阪本は、兄の影響で野球を始め、奈良県にある甲子園常連高へ進学を決めた。だが、学内セレクションの壁は厚く、「お前レベルなら、いっぱいいる」と野球部への入部すら認められなかった。しかし、そんな阪本を拾う神もいた。軟式野球部の監督が声をかけたのである。その高校は軟式野球でも強豪校だったが、数年間、全国大会の出場を逃していた。監督は阪本の野球のスキルだけではなく、その瞳の中に軟式野球部の部員たちに足りない熱く燃える心があることを見抜いたのだ。阪本は監督に促されるままに軟式野球部の練習を見学した。そしてこう感じた。
「他の高校の硬式野球部よりもずっとレベルが高い…」
こうして軟式野球部に入部した阪本は2年の秋、新チームのキャプテンになった。だが、その時点ではまだ全国大会出場の目標は達成できていない。そこで阪本は自らがリーダーとして本気で全国大会を目指すことを宣言し、過去の練習方法を徹底的に改善するとともに、部員たちの意識改革も促した。すると、それまで今一つ勝ちきれなかった軟式野球部は少しずつ強さを身につけていった。
「これなら全国も夢じゃない」
そう思った阪本だったが、なんと3年の春の練習試合で自打球を右目に当てて眼底の網膜を損傷。手術後は終日うつ伏せ状態のままという、苦しい闘病生活を送ることとなった。しかも経過が悪く、再手術の可能性も指摘された。そんな最悪の状態で、第50回全国高校軟式野球の近畿大会予選は始まった。ところが、キャプテンの不在が刺激となったのか、部員たちは「旬二を全国へ」を合い言葉に快進撃を続け、一勝するごとに監督や部員たちが病室に報告に訪れた。すると今度はその勝利報告が薬となったのか、阪本は劇的な回復力を見せ、近畿地区代表を決める決勝戦当日に退院。そのまま阪本のユニフォームの飾られたベンチに座ることになった。決勝戦での対戦相手は、新チーム結成の秋以来無敗という滋賀県屈指の強豪校。9回2死までノーヒットノーランに抑えられるが、阪本の高校も毎回のピンチを凌いで0対0のまま延長戦に突入する。そして迎えた延長11回、唯一得たランナー2塁のチャンスを活かし、センター前ヒットでのサヨナラ勝ち。阪本は全国大会出場の切符を手中に収めたのである。
「あんなに責任感のなかった副キャプテンがみんなをまとめ、ふらふらしていたエースが要所を締めては、僕に向かってガッツポーズをする。サヨナラヒットを打ったやつは〝僕が決めますから〟なんて、頼もしいことを言って打席に立つ。こんな連中じゃなかったのに…。そう思って、もう1回表からずっと涙が止まりませんでした」
こんな熱い体験をした阪本は、高校を卒業すると、父親が英語の講師だったこともあり、京都にある大学の英語学科に進学する。その大学の1年のとき、阪本はこんな体験をする。
「スペインとカナダから来ていた留学生と英語で話していたとき、二人から日本の政治や経済について意見を求められました。ところがそのとき、英語力もさることながら、僕には自分の国のことを語る知識がなかったのです。それまでは〝英語を学ぼう〟と思っていましたが、英語で〝何を語るか〟が最も重要なのだと実感し、このままじゃいけないと思い始めました」
阪本の心は再び燃え上がった。阪本は、まず会話ツールとしての英語力を磨くべく、カナダのバンクーバーに留学。現地では、日本人だけで集まり、1年経ってもろくに会話のできない日本人留学生たちとは一線を画し、勉強に集中。帰国後は神戸市外大に編入し、大学自治会の副会長に就任する。それは学生たちをまとめ、学内のさまざまなイベントなどを切り盛りするためだった。熱い男、阪本は常に組織の中心に位置し、組織をまとめ、目標に向かって突き進む性格だったのである。
そして迎えた就職活動。阪本は次々と内定を得て、どこに行こうかと考えあぐねていた。阪本を欲しがる企業は山ほどあったが、阪本は自らが働くということに対してどうもピンと来なかった。そんな折、リーダーシップも人望もあり、阪本も一目置く自治会の会長が第一志望の双日を落ちたとしょげているのを知った。
「お前を落とすとはどういうことや!」
阪本は敵討ちのつもりで双日に応募し、面接に臨んだ。阪本は総合商社であること以外、双日のことはほとんど何も知らなかった。しかし、そんな阪本に対して双日の面接官は、やさしくこう語った。
「僕も君と同じように野球で大けがをした。それで、ずっと苦しい思いをしながら生きてきたけど、今はフィールドを変えて、この双日という総合商社で前を向いて頑張っているよ」
その言葉が阪本の心に沁みた。自分の人生を代弁してくれているかのようだった。面接官は「うちに来い。一緒にやろう」と言ってくれた。思わず涙が頬をつたった。
「人生のほとんどを費やす会社だからこそ、就職活動ではその会社にいる〝人〟に重きを置きたいと思っていました。その時点ですでにいくつか内定をいただいていましたが、どこかしっくりと来ない、表面的な感じがしていたのも事実です。就職するって、こんなものかなと思っていました。でも、双日の面接を受けて、はっきりと分かりました。自分はこの人がいる会社に入りたい、ここしかない、と」
阪本にまた、熱い血潮がたぎった。それは高校時代、軟式野球部で全国大会を目指したとき、大学時代カナダ留学したときに感じたものと同じ、あるいは上回るものだった。こうして、双日の一次面接を終えた阪本は、それまで内定を得ていた会社すべてに断りの電話を入れた。なんの保証もなかった。就職留年も考えられた。だが、阪本は二次面接、最終面接を通過し、双日から内定を勝ち取ったのである。
「自分がそうだったかは分かりませんが、会社から〝こいつ欲しい〟〝こいつと働きたい〟と思われる人間になることが最も大切ではないでしょうか。会社は50人採用と決めていても、欲しい人間であれば51人採用しますし、欲しくなければ49人までで採用を終えます。数ではなく、やはり〝人〟なんだと思います」
⇒〈その4〉へ続く