豊島 市町 紀元
気がつくと、
ライバルはすべて消えていた
【略歴】
1977年北海道生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。2000年入社。
〝伝説〟は雷鳴とともに始まった!
2001年春、東京・日本橋富沢町―。
その日、〝繊維の総合商社〟として名高い豊島・東京本社のある部署で、緊急を要する会議が開かれようとしていた。その部署とは東京6部1課(現在の東京13部2課)である。
豊島では、営業社員たちが各々の個人力とチーム力を発揮しやすいように「独立採算制」を採用し、フラットな組織構成の中で課長を筆頭に7〜8名の課員が連携して顧客に対するきめ細かな対応を行っている。それはまた、営業社員の一人一人に責任ある仕事を任せることによって、若手社員であってもビジネスに対する誇りと責任感を持って業務も遂行できるようにするためでもある。業界のリーディングカンパニーである豊島にとって、最も怖いのは現状への甘えだ。そこで各課が日々切磋琢磨を続けることで、会社と営業社員の未来を切り拓いていこうというのである。そんなバイタリティー溢れる企業風土を持つ豊島にとって東京6部1課とは、社内に数十ある課の中で「川下」と呼ばれる百貨店のメンズブランド製品を取り扱う東京本社唯一の重要なセクションであった。ただ、アパレルのメイン商材とされるレディースブランドを扱う他の課と比べ、営業努力に反して満足のいく結果を手にするまでに至らない、やや影の薄い存在であったのも事実だ。そんな部署で突如開かれる会議に誰もがただならぬ雰囲気を感じていた。
時計の針が予定時刻を指し、会議は始まった。
ミーティングルームに集まった東京6部1課のメンバーは部長、課長を含めて十人ほど。その中に、入社2年目を迎えた市町紀元の姿もあった。
新入社員として過ごした1年間、市町は教育係の先輩社員のもとで豊島パーソンとしての基本業務を身につけてきた。約定登録、通関業務、納期確認などの事務作業を覚えるだけでなく、商材の流れについて身をもって体験したり、商材見本の入った荷物を「まるで宅配便屋さんのように」命じられるまま運んだり、また、時には先輩社員とともに営業に飛び出していくこともあった。
「あまり細かいことを気にしないタイプなのかもしれませんが、指示された仕事が嫌だと思ったことは一度もありませんでした。どんな業界であっても修業期間は必要。それを雑用や苦行だと思うのか、それとも未来を切り拓く第一歩だと思うのか。その違いは、実はかなり大きいんじゃないでしょうか」
市町は先輩社員から教わるばかりではなかった。入社してすぐ、アパレルの基礎知識など皆無だった市町は、帰宅後、テキスタイルメーカーから取り寄せた生地の織方や加工具合を徹底的に研究。その特徴から肌触りまで自分で確かめ、ノートにびっしりと書き込み、手作りのテキスタイル虎の巻を完成させたのである。
「商材の知識というのは、覚えておくべき基本スキル。ですから、毎晩、懸命に勉強しました。それは楽しいとかつまらないとかいう類のものではなく。当然やるべきことだと思っていましたから」
あくまでも冷静に語る市町。だが、そんな市町に会議の席で伝えられたのは、教育係である先輩社員の退社だった。通常、豊島では入社後数年は教育係と行動を伴にするのだが、市町は一年でその修業を終えることになった。しかし、市町を驚かせたのはそれだけではなかった。なんと、その先輩社員の担当だった国内有数のアパレルメーカーを市町が引き継ぐよう命じられたのである。市町の体を稲妻が走った。
「ぼ、僕がですか!」
市町は思わず、部長に問い直した。
「そうだ、君が担当するんだ」
部長の燐とした言葉にさすがの市町も絶句した。いくら営業経験があるとはいえ、それは小売店ばかり。国内トップ企業への単身での営業は経験がない。それは本来、他の先輩社員が担当すべき大手顧客だった。だが皆、自分の担当で手一杯。顧客を広げる余裕はない。そこで白羽の矢が立ったのが、市町だった。
「実績も何もない人間が大手アパレルさんに対応できるわけがありません。こいつ大丈夫かなと先方を不安にさせるに違いないのです。ですから、まさに青天の霹靂でした。でも、指名されたからにはやるしかない。よし、これはチャンスだ。自分自身にそう言い聞かせることにしました」
のちに〝伝説〟とさえ呼ばれる市町の果敢な挑戦は、こうして始まった。
⇒〈その2〉へ続く