岡谷鋼機 佐藤浩之
ものを売るだけでなく、
製造も人材育成も
グローバルに展開できる
1200人いるタイの工場に日本人は4人だけ
入社3年目の2004年に、佐藤が所属していた鉄鋼・特殊鋼貿易本部は組織変更して貿易本部に名称を改めることになった。本部に所属する全員が大会議室に呼ばれた。組織の名称が変わるだけで、仕事そのものは今までと変わらないと聞かされていた。順番に型通りの辞令を聞いている中で、ようやく佐藤の番になった。当たり前のように周りの人間と同じ辞令を聞くと思っていた佐藤だったが、その予想は大きく外れ、「タイの製造子会社に出向」と言われた。佐藤は耳を疑った。
「これだけ早く海外に行くのは珍しいので、まったく心の準備をしていなくて、足が震えました。もちろん周りも心配してくれましたが、自分が一番不安でした」
1か月後の3月にはバンコクにいた。勤務先はバンコクから車で1時間ほどのサムットプラカーンにあるユニオン・オートパーツ・マニュファクチュアリング(UAM)。岡谷鋼機が98パーセント出資する製造子会社だ。日本メーカーの現地法人を相手に、自動車と二輪バイクの部品を製造している。
翌日からすぐにマンツーマンで毎朝2時間、タイ語の勉強が始まった。工場では1200名が働くが、そのうち日本人は社長、副社長と若手2人の4人だけだ。従業員のほとんどはワーカーで、英語は通じない。最初は佐藤を見ると、日本人が来たと逃げていくようなありさまで、こちらから歩み寄らなければコミュニケーションが取れない。半年間タイ語の学校に通い続けて、ようやくある程度は意思が通じるようになった。
「日々の製造業務については、しっかりしたタイ人の管理者もいたので口をはさむことはありません。日系企業の窓口となって現場との橋渡しをするのと品質改善運動が私の役目といったところでした。それだけかと言われそうですが、本当に不思議なほど頻繁に問題が起きるので、最初の3年間はそれで手一杯でした。日本の自動車メーカーや二輪車メーカーの経験者にお願いして改善のセオリーを教えてもらい、タイ人と一緒に解決方法を考えるという毎日が続きました」
製造工程の中で重要な位置を占めているのが、ニッケルクロムのメッキ作業だった。二輪車のリムや四輪車のバンパーは光沢があってピカピカに光っているというのが、タイの人々の好みである。日本ではバンパーが樹脂製になっているが、タイなどいくつかの国々では今でも金属製を使う。
メッキには職人技も求められる。長年の経験があるワーカーの目は鋭く、何月何日からこのバンパーは溶接のやり方を変えている、だから同じことをしているのに仕上がりが違うと言ってくる。メーカーに問い合わせると、実はそうだと後追いで教えられる。
「現場の声は一番大事です。なるほどという意見が出てくるので、ワーカーとはよく話をしました。そうすると実際に問題が減り、不良品率が低減していくと、ワーカーもおもしろくなってきます。それに私が若いせいか話がしやすかったみたいで、逃げずに話してくれるようになりました」
サムットプラカーンの工場には3年間通った。その間に、パタヤに新たに工場を建設するという話が持ち上がった。
⇒〈その3〉へ続く