阪和興業 桒田清貴
新エネルギーの世界に
未来を託す
大震災直後も燃料を供給し続けた
桒田の入社1年目が終わろうとしていた2011年3月11日、東日本大震災が発生した。週末の金曜日、午後2時半過ぎだった。東京本社にいた桒田は、経験したことがない大きな揺れに驚いた。だがこのときから、再び経験するかどうか分からないできごとに次々と直面することになる。
重油の備蓄タンクが壊れて油が漏れれば大惨事につながりかねない。すぐに船橋に連絡を取った。石油元売会社のタンクが炎上する事故も起きたが、阪和興業のタンクは無事だった。
だが元売会社が点検のため土曜日と日曜日、すべての燃料油の供給を停止した。高炉を持つ製鉄会社やガラス会社などは炉の火が消えると中の材料が固まってしまい、炉をまるごと入れ換えなければならなくなる。そのままだと巨額の損失になるため、燃料の供給体制をいかに回復するかが緊急課題となった。
たまたま船橋のタンクにかなりの量の重油が保管してあったのが、不幸中の幸いだった。
「燃料油を供給する人間としては、燃料切れによる工場の操業停止はあってはならないことです。船橋にあった重油も在庫量は限られているので、殺到する注文にとても応じきれません。まずは今本当に必要としているところはどこかを精査しました。すぐ必要でなくても供給不足になってから困らないようにと、手元に確保しておきたいと考えるところからも注文は来ます。これまでの経験から、この工場は1日にこれ以上使わないはずだとか、何日前に納めたからまだこれだけ残っているなどと計算をしてそれぞれ対応しました。すべてのお客様に最善を尽くすため、必要な作業でした」
自社でタンクを持っている業者や、タンクを借りて油の在庫を保有する業者はほかにもある。月曜日には元売が燃料を供給し始めたが、それだけではとても足りない。阪和興業のようなブローカー同士で在庫を融通して急場をしのいだ。
あそこに油があるなどと、ユーザーも含めて情報交換を続けた。こういうときは阪和興業のような独立系の会社は系列に捉われないので有利だ。燃料課の営業担当7名は全員がその人脈と情報をフル活用し、船橋のタンクからから関東一円、一部は宮城や山形にまで重油を供給した。軽油も確保してタンクローリーで仙台に運んだ。3月中は昼も夜もない日々が続き、その後、2、3か月経っても余波は続いた。
だが燃料が届かずに工場が操業停止するという事態は回避できた。落ち着いた頃に取引先の社長が感謝の意を伝えようと団体で訪れ、燃料課には金一封の社長賞も出た。
東北の被災地域で復興の工事が始まると、今度は建設機器を動かす燃料が必要になった。現地では保管するタンクもないため、ドラム缶を用意して軽油を送った。それまで燃料部では付き合いがなかったゼネコンとの取引がこのときから始まった。
また東日本大震災をきっかけに、多くの企業が災害時の緊急対応を改めて考るようになった。たとえば銀行のデータセンターが停電になって万一データが消えたりしたら取り返しがつかない。非常時用の発電機は備えているが、燃料がなければ動かない。そのため燃料のバックアップ体制づくりに金融機関がいっせいに動き始めた。阪和興業の燃料課では、連絡を受ければ船橋のタンクから即時供給するしくみを構築し、こうしたニーズにも応えている。
⇒〈その4〉へ続く