商社の仕事人(39)その3

2017年11月29日

第一実業 飯塚 誠

 

フロンティアスピリッツを胸に、

海外で活躍

 

 

異例の異動辞令

新卒で入社後、2年間名古屋で勤務した後は大阪事業本部化学・産機プラント部に異動となり、リチウムイオン電池の製造設備などの販売を手がけるようになった。

このとき、飯塚は商社マンとして大きな転機を迎える。

2008年夏、第一実業の創立60周年の式典が東京の帝国ホテルで開催された。国内すべての支店、事業所の社員数百名が一同に会し、会場は熱気に包まれていた。社長以下、主だった役員たちのひと通りの挨拶が済み、歓談タイムへ。飯塚も大阪や名古屋の同僚とともに酒を酌み交わしながら話に花を咲かせていた。そのとき別のテーブルからやってきた同僚が飯塚の肩に手をかけ「おい飯塚、本部長が呼んでるぞ」と言った。

このとき、「ついに来たか」とピンときた。

胸の高鳴りとともに本部長のテーブルに行くと、隣に常務もいた。このとき予感は確信へと変わった。

「飯塚君、確か君はポルトガル語を喋れたよな。ブラジルで仕事をしてみないか?」と本部長は言った。

やっぱりだ。心の中で拳を握りしめた。

「はい! 喜んで行かせていただきます。いつからですか?」

現地での仕事は全くイメージできていなかったが、迷うことなく即答した。ブラジル駐在は飯塚の長年の夢だったのだ。

「高校1年生のときに、サッカーに熱中していたのでブラジルに1年間留学しました。その1年間でブラジルが大好きになり、将来はブラジルで仕事がしたいと熱望するようになったんです」

大学では外国語学部スペイン・ラテンアメリカ学科でポルトガル語やスペイン語などを学んだ。就職活動で第一実業を志望したのも将来ブラジルで働ける可能性が高かったからだ。入社後もことあるごとにブラジル支社で働きたいと人事部に希望を出していたが、まだ早すぎると却下されていた。

当時第一実業がブラジルに設立していた現地法人、第一実業ブラジル機械販売有限会社には日本人駐在員が1名と、現地スタッフが2~3名勤務していた。ブラジルは2007年頃から好景気に湧き、それにともない仕事量も急激に増加したので人手不足に陥っていた。そこでポルトガル語が喋れる飯塚に白羽の矢が立ったというわけだった。しかし、入社3年目の若手に海外赴任の辞令が下りるのは、当時の第一実業といえども異例中の異例。

「とてもうれしかったのですが、こんなに早くブラジルへ赴任できるなんて思っていなかったので驚きました」

飯塚の商社マンとしての能力が高く評価されていた証だろう。

そしてお盆明けに正式な異動辞令が発表され、翌年の4月、飯塚は憧れのブラジルへと飛んだ。

⇒〈その4〉へ続く

 


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