阪和興業 山中淳一郎
まだ誰もしたことのない
ビジネスを求めて海外へ
順風満帆に見えたが、リーマンショックに遭遇する
阪和興業が別の非鉄金属を販売しているメーカーにも、南アフリカ産のフェロクロムを紹介することで新規取引を拡大させた。さらに阪和興業自身も在庫を持ち、備蓄体制を構築した。こうすることで原料供給が安定し、急な注文にも対応できるようになる。
フェロクロムの取扱高は順調に増加し、このまま順調に収益を生み続けるかに見えたのだが、2008年9月のリーマンショックで国内外のフェロクロム市場もそれまでと様相が一変してしまった。
「このときは契約書がものを言わなくなってしまいました。売り手、買い手、それぞれの立場から、納期調整など色々とお願いしたり、お願いされたりしました。取引がゼロになってしまったらそれまでの信頼関係がそこで終わりです。今後も商売を続けていくことを前提に、譲れるところは互いに譲り合って最終的になんとか折り合いをつけることができました。間に入って調整をして、苦労はいろいろありましたが」
海の向こうから着いたフェロクロムを港に置けるか。取引先のメーカーの倉庫や工場にも納められないか。山中はあらゆる手段を講じて、送り出す側と受け取る側との間の関係を調整した。
ただ阪和興業が抱える在庫は膨れ上がった。翌2009年の後半までにはこの問題も解消したが、「フェロクロムといえば阪和興業」と言われる立場になっていただけに、業界では阪和の動きに注目が集まった。しかもフェロクロムは国際価格の変動が大きい。それだけのリスクがあっても、顧客の立場を考えればぜひ必要だという前提で、阪和興業は今もフェロクロムの在庫を持ち続けている。
しかしながら、日本のステンレスが、フェロクロムを今以上に多く消費していくことは考えにくい。今後はフェロクロムの輸入も減少の一途をたどる。だとすれば日本だけを見ているのではなく、世界市場で展開することを検討しなければならない。販売先も日本国内だけに限定せず、川上のクロム鉱石を確保して、日本を経由しない三国間貿易も手がけていく──。この阪和興業の新たな方針が、山中の仕事をまた大きく変えていった。
⇒〈その4〉へ続く