JFE商事 高沢健史
互いに幸福を感じる
ビジネスを目指して
リーマンショックを最大のチャンスに
入社3年目での海外赴任は、当時のJFE商事ではほとんど前例のないことだった。
「そろそろ異動かなとは思っていましたが、まさか同期トップでの海外勤務とは…。正直言って不安もありましたが、やってやるという気持ちのほうが強かったですね」
シンガポールでの勤務先は、現地企業との合弁で作った、110人の現地スタッフを有する鋼材加工センターだった。高沢は日本国内では下っ端でも、赴任先では数人の現地スタッフを抱える上司になる。もう、これまでのように言われたことを〝早くきちんとこなす〟だけでは済まない。
「部下とはいえ、どちらかと言えば仕事を教えてもらう立場。そんな中で、私が気をつけたのは、現地スタッフをやる気にさせることです。率先垂範は当たり前。私が何をしたいかをわかってもらうのが大切です。みんなが同じ方向に向かわないと仕事は成り立ちません。ですから、スタッフの声にはすべて耳を傾けます。会議中でも仕事をしていないときでも。とにかく〝飲みニケーション〟を心がけました」
この現地スタッフ掌握術は、すぐに実を結ぶことになる。それがリーマンショック後のビジネスの見直しである。高沢が扱う薄板と呼ばれる商材は、家電や変圧器などに使われることが多い。世界には日本や韓国、アメリカのほかにも、現地の家電メーカー、変圧器メーカーが無数にある。そうした地場メーカーを残らずターゲットにしていこうというのである。高沢と心を1つにしたシンガポール現地スタッフは、アジア各国へと飛んで、営業を開始した。高沢自らも飛んだ。その1つがミャンマーだった。
「ハロー、ハロー…」
ミャンマーのホテルでイエローページと首っ引きで電話をかけまくった高沢。何十社もかけた末に、ある変圧器メーカーの社長にアポイントを取り付けた。その社長は30代と若く、会社を大きくしたいという熱気にあふれていた。高沢はその社長にミャンマーの経済発展の見通しやJFE商事と組むメリットを切々と説いた。すると高沢の話を聞き終わった社長はこう言った。
「高沢、飲みに行こう」
それは高沢を信頼した瞬間であり、高沢が幸せを感じる瞬間だった。
「インドでは価格がすべて。どんなに長い付き合いでも価格が高いと買ってくれません。欧米では論理的で、世界のマーケットの状況を説明して納得すれば高くても買ってくれます。ミャンマーは日本や中国と同じ。付き合いやメンツを大切します。ですから一度親しくなると、とことん信用してくれます」
このミャンマーの変圧器メーカーとは、高沢得意の〝飲みニケーション〟の効果もあり、今でも公私ともに付き合いがあるという。こうした新規営業の甲斐があり、シンガポールの鋼板加工センターは2009年からじわじわと業績を回復し、2010年にはプラスに転じた。高沢は、リーマンショックという最大の危機を、アジア各地の新興国に新たな取引先を増やすことで、大きなチャンスに変えたのである。
⇒〈その6〉へ続く