三谷商事 阿部俊朗
35歳でM&A担当部長に就任。
「本社を超える子会社」を
海外に求める
30歳で支店長に
2006年6月、阿部に金沢支店長就任の辞令が下った。このとき阿部は、まだ30歳、三谷商事で最年少支店長就任記録を作った。同時にグループ会社2社3工場の社長と、系列新規会社の監査役を兼務することになった。部下態勢数十名の金沢エリアの建設資材部門の総責任者になったわけである。
だが三谷商事の支店長ともなれば伴う苦労も多い。通常の営業・部下管理だけでなく、資金管理、関連会社経営と正に総責任者。加えてコンクリートは非常に地域密着型の商品である。それだけに各地域には各地域なりの商売の文化がある。
阿部が役員として赴任した子会社も、社員20人ほどの製造工場ながら、工場なりの文化を持っている。そこには、その工場で絶大な影響力を持っている、彼の親ほどの年齢である古参の現場責任者(工場長)がいた。
しかし、阿部は、経営責任者として、その工場長に対して、彼の従来のやり方を180度変える経営方針を伝えなければいけない状況となってしまったのである。
原因は、その工場長が、旧態然で行っている現場マネージメント――例えば会社業績をあまり考慮しない工場運営や部下管理など――が、時代遅れで、グループ全体からは不利益になりかねないことだった。それを根本から変えることが阿部の仕事だったが、実際に実行には、従来のやり方に固執する工場長の猛烈な抵抗は避けられなかった。
「私は経営者の立場で来ていますから、当然三谷商事本体の立場を背負っていますが、ローカルしか見えてない工場長と当然、意見がぶつかります。しかしそうこうするうちに工場長との摩擦が顕在化してしまいました。工場の機能もみるみるうちに悪化してしまったんです。工場長の顔色をうかがって、部下が何もできない空気になっていたんです。このときは辛かったですね」
しかし、そのような状況下にありながら、阿部は逆にその部下たちから少しずつ会社の空気を変えていくことにした。
「この工場長に異動してもらう選択肢もできたと思います。でもその時は安易な選択はせず、融和を考えました。従業員の前でも絶対に工場長と対立していることは言わず、彼の次のポストに就くであろう人たちと、2、3年かけて少しずつ話し合いをし、説得していきました。これは試練でしたね」
北風ではなく、太陽。阿部はこのやり方で、4年間で少しずつ金沢支店及び傘下の関連会社グループを変えて、更なる業績向上に成功したのだった。
⇒〈その7〉へ続く